2007年活動レポート

スローフード・スローライフな真砂

2006年度は「県民との協働による島根づくり事業」にておいて、島根県益田市・真砂地区を拠点に、農業・食育体験を実施しました。

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 2010/09/09 12:32 午後

450人が野外でピザづくり! ~ペットボトルピザ四国・松山に上陸~

  • 2007/02/04 12:00 午前
  • 投稿者:
    iwai

■日時 2007年2月4日(日)
■開場 松山市野外活動センター

   

◆プレゼン中の「ニャー先生」
ペットボトルピザは小さな女の子が私もピザを造ってみたいという一言から、「ニャー先生」が開発したものです。ピザ生地をこねる作業が小さい子どもはうまく出来ません。その点をペットボトルでのシェイクで実現させたのです。おまけに醗酵がうまくいけば、容器内にガスが充満し、ロケットのように生地が噴出します。当日も10数メートル程度のボトルの飛躍が見られました。

 



■発端は立ち話、夢は実現へ

 2006年の夏、東京で開かれたとある研究会後の交流会、松山市市P連会長のK氏との立ち話。「ペットボトルピザ」おもしろそうですね~今度松山でやりませんか?いーですね、呼んでいただけるのなら、そりゃぁお伺いしますよ。会話としては10分程度、少しアルコールも回ってきていて、様々な人たちとの交流で幾分ハイになった状態。もちろん即答で返事をしました。しかし、それが・・・本当のことになろうとは・・・あの時はこれっぽっちも思っていませんでした。(すみません)これだから人生はおもしろい、そして人とのご縁に驚かされる。それがゆえに、我々はスタッフの家族ぐるみ総勢23名で、ギュウギュウ詰めのマイクロバスに揺られ、行きは7時間もの長旅を経験することになった。バスは荷物で溢れ所狭し、そして、にぎやかだ。道の駅に車が止まれば一同買い食いを楽しみ、車窓の美しい瀬戸内の景色に目を奪われ、渋滞するも街の眺めをゆっくり楽しんだり・・・数家族が、ひとつの家族になったみたいに互いの子どもの面倒をみたり。最近ははミニバンでの家族単位の移動が中心で、自宅の座敷状態が延延と続いてるような旅をしていることが多い。不便さもあったが、お互いが少しづつがまんするだけで家族の垣根が融解したような雰囲気を持つことが出来たのは良かったし、良い思い出となった。

    

◆圧巻450人のピザづくり「ニャー」ダンス
実はこのダンスをきちんとするかしないかで、ピザの出来が違ってくるのだ。実際最前列付近にいた子どもたちは、ほとんどパーフェクトに近い出来で、我々も驚いた。ポイントは混ぜ方で、だからこそ体操は恥ずかしがらずにやることが決め手。今回はひどい失敗は少なく、これだけの人数でやって失敗が少なかったは驚異だ。やっぱみんなでダンスしたのが良かったんだと思う。

■「仲間」をつくる、「仲間」がいれば出来ること


 当日は快晴、いい天気だ。山の上に広がる「野外活動センター」は見晴らしもよく、のどかな雰囲気。開始時間が近づくと、多くの親子が集まってくる。みんなペットボトルや、ピザの具などを袋に入れて・・・この光景に少し感動しました。見ず知らずの松山の人たちが、自分たちとピザをつくるために準備して出かけてきてくれていることに。愛媛大の学生やボランティアの方達とリハーサルを行い、いよいよ本番。現場が混乱しないか、不安な点はあったけれども、参加者の自発的な行動と、ボランティアの方々のすばらしい運営で、滞りなく体験活動は進み、お昼ころにはあちこちから焼けたピザを食べる歓声が聞こえてきました。

 450人という人数が混乱なく、ひとつの活動を行なうこと。これは我々23名のスタッフだけでは到底出来なかったことです。一回きりのリハーサルでピザづくりの流れを理解していただたスタッフの方々の理解力と、参加者の自覚的な活動へのかかわりがなければ不可能であったように思います。あのとき、私たちのそばには多くの「仲間」たちがいたように思います。成果をひとりじめにするのではなく、皆で達成を目指すこと。「寺子屋」のスタッフがすべてを仕切り、自分たちがすべてを請け負うのではなく、皆がどう動けばよいのかをコンパクトに伝え、「仲間」をつくり「仲間」にも動いてもらう。つまり、我々だけが体験スキルを極めていくのではなく、今後は物事を伝える技術を高めていくことの必要性を強く感じました。

  

◆世界にひとつだけのピザをつくる
もう少し醗酵に時間をかければ、噴出もうまく出来たように思いますが、季節がら仕方なかったかな。トッピングも450人それぞれで、本物のカニを載せたもの、八宝菜の具など我々が仰天するものも。私たちは「ジャコ天」でご当地ピザを作りました。これからも旅先で、現地の食材を利用したピザを作るぞ。


■時間の持つ作用。何が無為で、そうでないか。

 昼食を作るのに半日も費やす・・・時間の浪費といってもおかしくはない。我々は日常時、たとえばピザを食べるという目的にのみ執着しているのではなかろうか?単にピザが食べたければ電話一本で届けてくれるし、廉価で美味のオーブン用冷凍ピザも存在する。でも「過程」を経験しないと理解できないことは数多くある。我々が食するもののうち、一体どれだけの部分を我々が生産・加工に関与しているだろう。自分たちの手でモノを造るという機会も、きっかけも、自ら「選択」しなければ、どこにもない。要領よく、安易に食にありつけるにこしたことはない。しかし、そういう時間の過ごし方を「選択」すること、つまり効率化が、食べ物本来が持つ、差異性などの特徴を微妙に歪めてはいないだろうか?

 また、「過程」がなければ感動もないし、思い出にもならない。我々は7時間かけて松山に赴いた。この時間は無為といわれればそうかもしれない。けれども旅とは本来そういう類のものであり、だからこそ感動もある。しかし思えば日常も実は同じ。中田ヒデは人生は旅といったが、日々の生活の中で旅をしている人がどれだけいるだろう・・・だからこそ彼の言葉に人々は共鳴したのだと思う。

 たとえば、家族と過ごす時間。何をしたかに重きをおき、どう過ごすかを忘れてはいないだろうか?何をしたかといえば、この日の午後はピザを作ったということでしかない。けれども、どう過ごしたかということでいえば、この日は多くの人とのふれあいがあり、自分でモノを作ったという経験の数をひとつ増やしたことになる。

■遊ばされるのでなく、どう遊ぶか・・・そして異邦人を愛せ

 そして、アウトドアといっても、妙に道具ばかりよくて、結局インドアと同じレベルで、清潔で効率的な作業しかしていないこともある。お金をかければよい道具はどこにでも売っている。思えば幼きころ、空き地などで落ちているモノを使って遊んだような記憶が我々にはあるが、今の子どもたちにそういった機会があるだろうか?たとえばクラフトで遊ぶにしても、そのための素材が店では売られている。遊ぶにはお金があればよいのだ。この日のペットボトル、ダンボールについては入手にお金は必要ない。それでもあれだけ楽しめる。お金がなくても我々は工夫して遊んでいたし、もちろんお金もなかったし・・・。でもこれって何かの状況に似ていないか?たとえば我々の住む益田市という自治体も財政的に厳しい状況下にある。でもお金がないから何も出来ない、のではなく、どう遊ぶ=楽しく生きるかなのだと思う。どう知恵を出すかだ。

 この日もピザを分け合って食べた。他人のピザを食べることは、他人を受け入れること。他の家族が体験して作成したピサ゜を嚥下することで、自らの体験を相対化するし、他者性をも容認する。思えばいろいろな体験、たとえば家族で旅行などをしてみても、その顔が実は自分たちだけにしか向いていないことが多い。自分たちだけ楽しければそれでよいのか?自分たちの「持ち分」を、少しだけ他人に譲ることにより、実はもっともっとハッピーになれることって以外とあるのでは?その「持ち分」には時間も含まれるはずだ。分け合って食べたピザのように、自分の心のピースを譲ってみよう。全部を分け与えよって言っているんじゃない。ほんの一切れでいいんだ。

 

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