子どもと親の野外等での様々な体験活動を創る、島根県益田市のボランティアグループです。
| 「スローフード・スローライフな真砂づくり」の一年 |
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| 島根県益田市の山里・真砂地区で農業・食育体験を通じて感じたことを、報告します。 | ||||
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■真夏の作業 むせかえるような真夏の雲気の下、大豆畑に赴いた。けだるい羽虫の飛ぶ音。Tシャツはたちまち汗だくだ。青々と茂る大豆の葉。生育は順調にいっているように伺えた。今年はどうかね?葉っぱばっかり茂っても実が出来なきゃね。どうなるろうかあ?今年はいいんじゃないですか?結局いつの年も同じだ。その季節になってみないとわからない。御天等さま次第なのだ。大豆の脇から生えてくる雑草を始末するのも一仕事だ。畝きりの機械で、大豆と大豆の間の溝を掘り、土を根元に掻き上げる。一輪の管理機といったらわかってもらえるだろうか。それを押し、土まみれになって大豆畑を行き来する。水田には水があるが、大豆畑には水はない。巻き上げられた土ほこりにまみれて作業していると、水が傍にないことが息苦しさを助長しているように感じられる。この草の始末にあきれて大豆作りを止める人もいる。この作業においてのヨロコビといったら、終わったあとの達成感と、風呂上りのビール以外ない。作業中は辛さ以外何もない。そんなときは考える機能を停止し、自分が機械になることに徹するしかない。 ■大豆に実がならない 秋になった。大豆の葉が黄色く色づき、縮れてくる。薄い枝豆状の実がまとまって枝にぶら下がっている。その実は最初は当然薄い。徐々に実が膨らんでくるはずなのだが、一向に膨らむ気配がない。秋は深まり、山の緑もうち枯れてゆく。紅葉も終わり、冷たい霜が降りる季節になった。縮れた大豆にはほとんど薄っぺらのままの実が、ぶら下がっている。青々とした葉の茂りとはうらはらに実りは少なかった。大豆を一本一本抜いて歩き、まとめて竹竿にかけて歩いた。時折、パラパラと実がはじけて落ちた。広い畑だが抜いて歩くのに時間はかからなかった。ほとんどまともなものがなかったから。枯れ果てた畑に風が吹き、冷たい雨が降り始めた。落胆というより、虚無的な瞬間だった。がんばったからといって、単年度の中にかならず報いが用意されているわけではない。子どもたちは歓声を上げて畑を走り回っていた。近所の人が集まってくる。(収穫の)ええ年もあるけど、シシに食われたりのう、刈り取るまで何があるかわからんで。うちらたあ、ほうろよう出来たんじゃないかね。(ウチの家より良く出来たんじゃないかね。)ウチは全然ダメじゃったけぇのう。 来年また植えればいいじゃん。子どもたちはそういって雨の中を走り回っていた。 ■失敗は許されるのか 農業において失敗は許されるのだろうか?農のサイクルは、大豆でいえば一年一回きりだ。失敗したからといってやり直せるものではない。つまり建設業のように、まとまったお金が工期後に確実に手に入るとは言いがたい。(建設業でもそうならないこともありますが、一般的に例えた場合です。)たとえば、よく野菜など豊作になったからといっても、市場で価格が割れてしまえば値がつかなく、廃棄している事例がニュースで流されたりしている。ビジネスということであれば、当然失敗は許されない。けれども、何を学んだか、という点においては失敗ではないはずだ。アイガモ農法にチャレンジし、こちらは実際の収穫もあり、米も売れ、計画は達成できた。ただ単に収穫だけにとらわれない多くのことを学ぶことが出来た。もしかしたら、収穫された米よりも大きな体験をすることが出来たのではなかろうか? 農業の持つ機能は多面的なものでであり、集落や農地の維持などにも貢献している。収穫という目的だけではなく、たとえ不毛であったとしても多面的機能の効果が存在する。 もうひとつ、我々は失敗を許される空間にどれだけ属しているだろうか?失敗することを恐れていては、何も出来ない。思えば今の子どもたちに失敗を許される時間やフィールドがどれだけあるだろうか?農業には失敗が確固として存在している。子どもたちは失敗を経験することが必要なのではなかろうか? そして失敗を許すのは、他でもない「結い」、つまり仲間の存在があってこそ、成立する。我々はネイチャーキッズ寺子屋という仲間たちで大豆づくりに失敗した。そのことが癒しとなるのだ。 ■農業は一人では出来ない。「結い」は救い 休耕田の草刈、荒起こし、代掻き、モミ撒き、田植え、電気柵の取り付け、害鳥対策、畦の草刈、アイガモの世話、稲刈り、ハゼ干し、脱穀、精米、販売、料理、そして食べること。大豆の種まき、雑草処理、収穫、とうふづくり。みんなネイチャーキッズ寺子屋の仲間で、群れて行った。親子の枠を解体して、ひとつの群れとなって農事に費やした一年が終わった。初夏のある午後、しかも平日、みんな仕事を都合つけて電気柵の取り付けを行ったことがあった。これ、ぜったい一人じゃ出来ないよな。誰からともなく、そう声が出て、納得しあった。そう農業は一人では出来ない。機械をいくら導入したって、仲間が、「結い」がなければ到底なしえない。思えば我々日本人は縄文の世からこうして群れて農業を行って生活してきた。我々はいつの日から一人で生きていけると考え、利己や欲望におぼれるようになったのだろうか?我々はなぜ農業をするのか?食糧を確保すめために行うのだろうか?もしかしたら本当は、コミュニテイをつくるために、仲間と過ごすために、その時間を作るために種をまくのではないだろうか?たぶん我々は来年、また大豆の種をまくだろう。 (岩井賢朗) |